食料危機は対岸の火事ではない。「みどりの食料システム戦略」が描く、日本の農業の生き残る道

気候変動の激化、生産者の高齢化、そして国際情勢の不安定化——。
日本の農林水産業は今、国内外の大きな変化に直面しています。こうした中、食料の安定供給と環境保全の両立を目指す国家戦略として農林水産省が打ち出したのが「みどりの食料システム戦略」です。
この戦略は未来への希望を示す一方で、その野心的な目標を巡っては、実現性や現場への影響について様々な議論が交わされています。
本記事では、この戦略の重要性から具体的な目標(KPI)、そして戦略が直面する課題や批判まで、提供された資料を基に多角的に解説します。
なぜ今、「みどりの食料システム戦略」が重要なのか?
この戦略が急務とされる背景には、避けては通れない複数の課題があります。
- 気候変動の深刻化: 日本の年平均気温は上昇を続けており、2024年には観測史上最高を記録しました 。高温による米の品質低下やリンゴの着色不良はすでに各地で発生し、豪雨災害も激甚化しています 。
- 生産基盤の脆弱化: 農業の担い手は減少し、高齢化が深刻です。基幹的農業従事者数は2010年の205万人から2020年には136万人へと大幅に減少し、平均年齢は67.8歳に達しています 。このままでは、長年培われた技術の継承が困難になりかねません。
- 地球環境の限界と国際社会の動向: 世界の温室効果ガス(GHG)排出量のうち、農業・林業分野が22%を占めています 。生物多様性の損失など、地球環境の限界(プラネタリー・バウンダリー)が指摘される中、世界各国で環境と調和した食料システムへの転換が加速しています 。
これらの課題に対し、生産力の向上と持続可能性の両立をイノベーションで実現することを目指すのが、この戦略の核心です 。
戦略が掲げる目標(KPI)と最新の達成状況
本戦略では2050年までの長期目標に向け、2030年の中間目標として具体的なKPIが設定されています。
その進捗には、目標を上回るものと、一層の努力が求められるものがあります。
KPI項目 | 2030年目標 | 2023年実績 | 評価 |
化学肥料使用量の低減 | 72万トン 20%低減 | 68万トン 約25%低減 | 達成 |
事業系食品ロス削減 | 273万トン 50%削減 | 231万トン 58%削減 | 達成 |
化学農薬使用量低減 | 10%低減 | 約15%低減 | 達成 |
有機農業の取組面積 | 6.3万ha | 3.45万ha | 加速中 |
農林水産業のCO2排出量 | 1,484万t-CO2 10.6%削減 | 1,856万t-CO2 11.9%増加 | 課題 |
化学肥料の削減や食品ロス削減はすでに2030年目標を達成するなど、大きな成果を上げています。
一方で、CO2排出量は依然として増加傾向にあり、削減に向けた取り組みの強化が急務です。
戦略を巡る主な論点と現実
意欲的な目標を掲げる一方で、その実現性や手法については様々な意見があります。
ここでは主要な3つの論点について、批判的な見解と現状を併記します。
1. 「有機農業25%」は非現実的な目標ではないか?
日本の有機農産物市場はまだ小さく、収量が不安定になりがちな有機農業への転換は、多くの農家にとって経営リスクが大きいという指摘があります。
慣行栽培に比べ収量が2〜3割減少するとの報告もあり、技術的なハードルも高いことから、「目標ありき」の非現実的な計画ではないかという声が上がっています。
戦略策定後、有機農業の面積は年間平均4,000ha以上のペースで増加しており、拡大の勢いは増しています 。
また、地域ぐるみで生産から消費まで一貫して取り組む「オーガニックビレッジ」は全国150市町村にまで拡大 。
さらに、国は有機栽培マニュアルの整備や除草ロボットなどの技術開発を進め、技術的なハードルを下げる努力を続けています 。
目標達成の道のりは長いものの、支援策と現場の努力が結びつき始めています。
2. スマート農業は中小・家族経営を置き去りにしないか?
AIやロボットを活用したスマート農業は、初期投資が高額になりがちです。
そのため、資本力のある大規模経営しか導入できず、日本農業の大半を占める中小・家族経営との格差を広げるだけではないかという懸念があります。
政府は多様な補助金制度を用意し、機械の導入を支援しています。
また、比較的小規模な農家でも導入しやすい小型の電動農機やアシストスーツなども普及し始めています。
さらに、環境負荷低減に取り組む農家を認定する「みどり認定」を受ければ、税制や融資の優遇措置が活用でき、中小経営でも技術導入のハードルは下がりつつあります 。
政府は、生産者が環境負荷低減に取り組む際の経済的負担を軽減するため、多岐にわたる支援策を用意しています。

直接的な補助金・交付金
- みどりの食料システム戦略推進総合対策: 令和8年度の概算要求額として39.11億円が計上されており、化学肥料・農薬の低減、有機農業への転換、省エネ化など、戦略に基づくモデル的な取り組みを技術実証から機械・施設の導入まで幅広く支援します 。これは、前年度予算額の6.12億円から6倍以上の大幅な増額です。
- 環境保全型農業直接支払交付金: 有機農業や化学肥料・農薬の使用量低減に取り組む農家に対し、28.71億円(令和8年度概算要求)の予算で直接的な支援を行います 。令和6年度補正予算および令和7年度当初予算で措置された「みどりの食料システム戦略推進交付金」は、全国で474件の具体的な取り組みに活用されています。
- 強い農業づくり総合支援交付金: CO2ゼロエミッション化などに必要な機械や施設の整備を支援します 。
機械導入を後押しする税制・融資の特例
特に、高額な設備投資のハードルを下げるための制度が充実しています。
- みどり投資促進税制: 化学肥料・化学農薬の使用低減に取り組む認定生産者が、対象となる機械(※)を取得した場合、導入初年度に通常の減価償却費に上乗せして、機械なら取得価額の32%、建物なら16%を特別償却できます。これにより、導入当初の法人税・所得税負担が大幅に軽減されます 。
- (※)対象機械は、国の認定を受けたメーカーが製造するものに限られます。これまでに高能率水田用除草機、可変施肥機、堆肥散布機(マニュアスプレッダ)など84機種が認定されています(令和7年8月末時点) 。
- 融資の特例措置:
- 農業改良資金(無利子): 必要な設備投資に対し、日本政策金融公庫による無利子融資の償還期間が通常10年から12年に延長されます 。
- その他低利融資: 畜産向けの「畜産経営環境調和推進資金」や、漁業者向けの「沿岸漁業改善資金」など、分野に応じた長期・低利の融資制度が用意されています 。
これらの支援は、「みどり認定」を受けることで活用しやすくなる(または認定が必須条件となる)ものが多く、戦略の取り組みを強力に後押しする仕組みとなっています。
一方で、戦略が掲げる目標の壮大さを考えると、現在の予算規模ではまだ課題が残るという見方もあります。
- 目標のスケールとの比較: 例えば、「2050年までに有機農業の面積を100万ヘクタール(全耕地面積の25%)に拡大する」という目標は極めて野心的です 。日本の農家戸数が100万戸以上ある中で、数十億円規模の予算が、数十万戸の農家に転換を促すインセンティブとして十分なインパクトを持つかには疑問が残ります。
- 個々の経営への影響: 多くの農家、特に中小・家族経営にとって、有機農業への転換や高価なスマート農業機械の導入は、一時的な減収リスクや大きな投資負担を伴います。現状の補助金が、そのリスクを上回るほどの安心材料になっているとは言い切れない可能性があります。
- コストと収益のバランス: 最終的に、生産者が環境負荷低減の取り組みを継続できるかどうかは、補助金だけでなく、生産物の価格に付加価値が反映され、経営として成り立つかにかかっています。補助金はあくまで初期の「呼び水」であり、市場が育たなければ、持続的な取り組みにはつながりにくいという構造的な課題があります。
結論として、政府の関連予算、特に直接的な補助金や交付金は「近年、大幅に強化されているが、戦略の壮大な目標達成に向けて十分かは、今後の成果を見極める必要がある」と言えるでしょう。
3. 環境負荷低減の取り組みが、生産者の新たな負担になるのではないか?
化学肥料・農薬の削減や、水田のメタンを減らすための「中干し期間の延長」などは、収量減少のリスクや新たな作業負担を伴います。これらのコストが生産者に一方的に押し付けられれば、経営を圧迫しかねません。
この戦略では、環境負荷低減の取り組みを経済的な価値に変える仕組みが用意されています。
J-クレジット制度: 「中干し期間の延長」などによる温室効果ガス削減量をクレジットとして企業などに販売し、新たな収入源とすることができます 。
みえるらべる(見える化): 環境への貢献度を星の数で表示し、商品の付加価値として消費者にアピールする仕組みです 。環境配慮型商品を求める消費者は8割にのぼるという調査結果もあり、市場での評価が期待されます 。
直接支援: 政府は、環境保全型農業直接支払交付金に加え、2027年度を目標に新たな環境直接支払交付金の創設を検討しており、取り組みを直接的に支える体制を強化しています 。
生産者は何をすべきか?
この大きな変革の中で、生産者には課題と機会の両方が提示されています。
1.「みどり認定」の取得を目指す

「みどり認定」は、税制優遇や補助金の優先採択といったメリットを受けるための重要なステップです。その認定プロセスと基準は以下の通りです。
認定の全体像
認定は、個々の農林漁業者が取り組む「環境負荷低減事業活動実施計画」と、地域ぐるみで先進的な取り組みを行う「特定環境負荷低減事業活動実施計画」の2種類が主となります 。
- 国が基本方針を策定
- 都道府県・市町村が地域の実情に合わせた基本計画を作成
- 農林漁業者がその基本計画に沿って自らの実施計画を作成し、都道府県に申請
- 都道府県が計画を審査し、認定
認定基準となる活動(環境負荷低減事業活動)
認定を受けるには、以下のいずれかの事業活動に取り組む計画であることが必要です 。
- ① 土づくり + 化学肥料・化学農薬の使用低減: 堆肥の施用などによる土づくりと、化学資材の削減を一体的に行う活動(有機農業もこれに含まれます)。
- ② 温室効果ガスの排出削減: 省エネ設備の導入、水田の中干し期間延長によるメタン削減、家畜排せつ物の適切な管理など。
- ③ その他、国が定める活動:
- バイオ炭の農地への施用による炭素貯留
- 生分解性マルチの使用などによるプラスチックごみの排出抑制
- 化学資材の低減と生物多様性保全を両立する活動(例:江の設置、冬期湛水)
計画には、5年間を目途とした具体的な数値目標、実施内容、資金計画などを記載する必要があります 。
認定を受けるメリット
認定を受けた農林漁業者(みどり認定者)は、前述の補助金での優先採択 や、みどり投資促進税制、融資の特例措置 といった手厚い支援を活用できます。すでに全国で30,367経営体(令和7年8月末時点)が認定を受けており、JAなどがグループで認定を取得する動きも広がっています 。
2. 新しい技術を積極的に探す
農林水産省は、現場で導入可能な技術をまとめた「技術カタログ」を公開しています 。
土壌診断に基づく施肥管理やスマート農業技術、天敵利用など、自らの経営に取り入れられる技術を探すことが重要です。
最近の農業では、大規模な投資が必要なものばかりでなく、比較的小規模な経営でも導入しやすく、すぐに効果を実感できる新しい技術が数多く登場しています。
人手不足の解消や作業負担の軽減、コスト削減に直結する、導入しやすい技術を目的別に紹介します。
体への負担を直接軽くする技術
日々の作業の身体的な負担を軽減する技術は、導入しやすく効果を実感しやすいのが特徴です。
- パワーアシストスーツ: 中腰姿勢での収穫や重量物の運搬といった作業の際に、腰や腕にかかる負担を大幅に軽減します。電動のものだけでなく、空気圧を利用した電源不要のタイプもあり、比較的手頃な価格(15万円程度)から導入が可能です。スイカ農家からは「腰痛が軽減された」「果実を安定して運べるようになった」といった声が上がっています。
- 自動草刈機(ロボット草刈機): 設定したエリア内を自動で走行し、草刈り作業を無人化します。特に中山間地や果樹園など、人手による草刈りが大きな負担となる場所で効果を発揮します。導入した農家からは「年間の除草作業時間が10aあたり20時間から1時間に激減した」「夏の暑い中での作業がなくなり、労働環境が改善した」といった報告があります。
- 直進アシスト機能付き田植え機: GPSを活用して田植え時の直進操作を自動化する技術です。経験の浅い人でも熟練者のようにまっすぐな田植えが可能になり、運転の負担が減るため、長時間作業の疲労を軽減できます。
AIや機械による省力技術
スマートフォンやドローンなどを活用し、大きな効率化を図れる技術も増えています。
- 農業用ドローン: かつては高価な無人ヘリコプターが主流でしたが、ドローンの登場により、農薬散布や肥料の追肥、圃場のセンシング(生育状況の確認)がより低コストで可能になりました。害虫が発生している場所にだけピンポイントで農薬を散布したり、生育が遅れている部分にだけ追肥したりすることで、農薬や肥料のコスト削減にも繋がります。
- 水管理システム: スマートフォンを使って、水田の水門を遠隔で開閉できるシステムです。これにより、毎日の水田の見回りに要していた時間と労力を大幅に削減できます。
- 環境モニタリングセンサー: ビニールハウス内の温度や湿度、土壌の水分量などをセンサーで計測し、データをスマートフォンで確認できるシステムです。異常があれば通知が届くため、遠隔地からでもハウスの状態を把握でき、異常への迅速な対応が可能になります。小規模な農家の中には、市販の部品を組み合わせて自作(DIY)することで、低コストで同様のシステムを構築する事例もあります。
- アイガモロボ: 水田を自動で泳ぎ回り、水を濁らせて雑草の光合成を妨げ、除草作業の手間を大幅に削減するロボットです。農研機構の発表によると、水稲の有機栽培で除草回数を約6割削減し、収量を約1割増加させる効果が確認されています。
データ活用で経営をサポートする技術
- 営農管理システム: スマートフォンやタブレットを使って、農作業の記録や生産工程、販売実績などをデータとして管理するアプリやソフトウェアです。過去のデータを分析することで、翌年の作付け計画を立てたり、最適な栽培方法を見つけ出したりするのに役立ちます。
- AIによる病害虫・生育予測: ドローンなどで撮影した圃場の画像や、過去の気象データなどをAIが分析し、病害虫の発生リスクや作物の収穫時期を予測するサービスです。これにより、適切なタイミングでの防除や、収穫・出荷計画の精度向上が期待できます。
これらの技術は、それぞれが独立しているだけでなく、複数を組み合わせることでさらに大きな効果を発揮します。まずは自身の経営課題に合った、取り入れやすい技術から試してみてはいかがでしょうか。
3. J-クレジットや「みえるらべる」を活用する
これらは環境への取り組みを収益や付加価値につなげるための重要なツールです。
JAなどが取りまとめるプログラムへの参加も有効な手段です。
環境負荷低減に取り組む生産者の市場価値を上げる仕組みなので、積極的に活用しましょう。
まとめ
「みどりの食料システム戦略」は、日本の食と農の未来を守るための野心的な挑戦です。その高い目標には批判や懸念の声もありますが、それらの課題に対応するための具体的な支援策や新しい仕組みも同時に動いています。
この戦略が成功するかどうかは、指摘されている課題に対して、政府、生産者、関連企業、そして消費者が一体となって、いかに現実的な解決策を見出し、実践していけるかにかかっています。生産者にとっては、変化への対応という負担だけでなく、新たな付加価値を創造する好機ともなり得るでしょう。
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