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お米の味に魅せられて part.1

今回のHumans of 農業の主役である澤山さん(67歳)は、長野県上田市でお米とネギを育てている専業農家さんです。
ご自身で栽培している作物や新潟での農業経験など、様々なことについてインタビューさせていただきました。
今回のインタビューで見えてきたのは、澤山さんの農業に対する愛です。
こういう方がいる限り、日本の農業もまだまだ見捨てたものではない!そんな風に思えたインタビューでした。

ーー どんな作物を育てていますか?

水稲が主で、あとネギをすこし栽培しています。
松茸小屋という、小屋で松茸料理を出すところがありますので、そこに契約栽培でネギを出しています。
ここら辺は(松茸の)産地でね。いまこそ松食い虫で山全体が茶色くなっちゃったんだけど、昔は松茸が結構取れていて。
今は移っちゃったんだけど、昔は農協が家の隣にあったんですよ。
農協で松茸の出荷があって、やっぱりうちが近かったので、もうすごかったです。
匂いが。
強くてね〜。

私のうちも山がありまして、そこに松茸林があって、松茸が生えていました。
中学になってからかな?
親に(松茸を)取りたいって言って、前は他のお宅に取ってもらっていたんだけど、
自分でも取りたいと思って、中学校・高校と松茸で少し稼いでました。

うちの両親が私の若い頃に亡くなりまして、18の時に父親が亡くなり、そのあと新潟の学校へ行きました。
勤め始めたのは昭和49年で、役場に勤めてたんですけど、2年目の春に母親が亡くなりまして、
実家には結構田んぼが多かったものですから、自然に農業をやるようになりました。

ーー では最初は兼業だったのですか?
最初は兼業です。勤めながらやっていました。
当時、昭和50年51,2年ごろは、米価が良かったんですよね。一俵あたり2万いくらあったんですよ。
構造改善があってから圃場が少なくなったんですけど、その時8反歩くらいあってそれ全部やっていたんです。
まあ兄弟に手伝ってもらっていたんだけどね。
その時は9俵取れて、そうするとそこそこお金になって、その当時役場での給料は月3万とか4万だったので、
お米を出荷すると、まあ大変ではありましたけど、ボーナスを二回もらうような感じで、これはいいなと思って笑
それと、両親が、自分が若い時になくなったので、親孝行できなかったから、
田んぼくらい守って行かなきゃいけないかなと思っていたんですよね。

コンバインで作業する澤山さん

今は専業でやっています。平成23年に退職しまして、最初はここ長野ではやるつもりはなくて、
ご縁があり、新潟の上越の板倉区猿供養寺というところで農業をやっていました。
そこで一昨年まで、棚田で約1町歩、お米作っていました。
向こうで家を借りて実際にやって、3、4年いたんです。
でも、家内と兄弟から帰ってこい帰ってこい言われて、私は帰るつもりはなかったんだけど。
それで長野に帰ってきて、それまで近所の高齢の方が面積多く作っていたところを、
その後奥さんと子供さんがやっていたんですけど、それを手伝うようになってそれから、
じゃあやるかって感じになって、機械を全部買い換えました。
田植え機・コンバイン・乾燥室・籾摺り機を、全部新品で買いました。

ーー農業をやっているからこその思いはありますか?
荒廃地を無くして優良農地を残せれば嬉しいな、というのが私の農業に対する思いです。
今もですけど当時、高齢化で、農地が荒れていくような状態だったんですよね。
なので、少しでも優良農地を残して、退職する方に10年15年っていうスパンで引き継ぎができれば、
そのつなぎ役ができればいいかなと思ってね。
守っていたんですよ。

例えば、集落の中に組合を立ち上げて、その仲間に入ると農業を継続できるっていう仕組みを作るとか。
個人でやっている場合、その人ができなくなると、継続できなくなるんですよね。
なので組織を作って、立ち上げようかなと思ったんです。
私が前にいました猿供養寺ってところには、そういう地域の集団組織みたいなのがあったんですよ。
そこには機械が全部あったので、そこへ行けば、農機が借りられたんですよね。そういうところも少し学んで、持ってきたんです。
でもまだ(組織の)立ち上げまでにはいかなくて、徐々にという感じかなと思っています。

(つづく)

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